雪は空中にあります

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話を聞きつけた尼

2015年07月06日

話を聞きつけた尼
内蔵助は苦虫をかみつぶしたような顔で石段を降りていた。振り向くと、阿久利はまだ手を合わせている。
 瓦版《かわらばん》を一読し、紅潮した面持ちの阿久利に手を引かれ、内匠頭《たくみのかみ》の墓前に連れてゆかれた内蔵助は、
「お喜び下さい。内蔵助たちが殿のご無念を晴らしてくれるとのことです」
 と墓前にぬかずき報告する姿をぼん願景村やり眺めていた。そして、
「今まで茶屋で遊びほうけているとの噂《うわさ》を聞き、腹立たしく思っていましたが、それも世を忍ぶ仮の姿と知って、嬉《うれ》しく思います」
 深々と頭を下げられ、やっと現実に立ち戻り、今さら否定することもできず、ニガりきっていた。
 部屋に戻ると酒の用意が整っていて、話を聞きつけた尼たちが入れかわり立ちかわり、激励にやって来る。そして別れ際、内匠頭のかたみの小刀を渡され、
「この刀で見事ご無念をお晴らし下さい」
 と念を押された。
「あのネズミ、はめやがったな」
 いったんはそう吐き捨てたが、なおも虚勢を張るかのように不敵な薄笑いを浮かべ、瓦版をこまかく引き裂いた。が、反面、ここまで自分たちを追い込んだ其角《きかく》の執念に空怖ろしいものを感じもした。
 が、問題は仇討ちをしたあとだ。もし獄門打首《ごくもんうちくび》にでもなるとしたらどうしてくれる! ろくに話もしたことのない殿様のために誰《だれ》が仇討ちなどするものか。しかし、考えてみれば、浪人の生活もいまが限度だ。忠臣として迎えられるか、暴徒として葬りさられるか、さっ、どうなる!
 内蔵助は遂《つい》に訪れた決断願景村のときを思った。
 ――どうして生きのびる? 吉良《きら》を討ちとって、どうしたら罪を問われなくて済む?
 内蔵助は自問し、武者震いした。やるなら、後に憂いを残さぬよう、十全の準備をせねばならない。
 その夜、一晩中まんじりともせず、目が落ち窪《くぼ》むほど考えつくし、内蔵助は翌日、自ら旅仕度を整え、単身|加賀《かが》に赴いた。討ち入りを正当化し、あっぱれ武士道の鑑《かがみ》として迎えられるように、前田家に仕える儒学《じゆがく》者、室鳩巣《むろきゆうそう》に「赤穂義人伝」二巻の執筆依頼をするためであった。派手好きで、なんとか中央の学界にうって出たいと思っていた野心家の室にとって、この話は渡りに船で、快諾を得ることができた。
 が、この男だけでは心許ない。加賀から雋景の帰路、内蔵助はもう次なる策を練っていた。
「よおし、あとは綱吉おかかえの儒学者、林大学頭信篤《だいがくのかみのぶあつ》だ、あの男をおさえておけば大丈夫だろう」
 内蔵助はほくそえんだ。
 幕府の御用学者として昌平坂《しようへいざか》学問所をあずかり、その権勢で学界に君臨しつづけてきた林大学頭は、鶏ガラのように痩《や》せて、長身で、およそ学者とは思えぬ、因業《いんごう》な金貸しを思わせるような老人だった。
 林大学頭は設けられた席の上座にすわるやいなや、権力欲にとりつかれた亡者のような顔で、
「いくら出す」
 単刀直入に切りだした。内蔵助は内心ホッとした。こういうのが話が早くてよい。
「仕度金を全部」
 と自信たっぷりに答えた。
「仕度金?」
 大学頭はうさん臭そうにおうむ返しに尋ねた。
 内蔵助はニヤリと笑い説明した。もしこの仇討ちが成功して、世論が自分たちの行ないを誉《ほ》めそやすことになれば、各藩からあっぱれ忠義者として仕官の誘いがあとをたたないであろう。そのときの契約金を全部渡すというのである。
 さすがのすれっからしの林大学頭も落ちくぼんだ目を見開き、ゴツゴツ骨ばった手の細い指を神経質そうにこすりあわせながら、
「へー、先の先までよんでるんだね」
 とあきれ顔で、それでも感心したような声をあげた。
「死ぬとわかっちゃ、だれも集まりゃせんから」



Posted by にテニスエ at 12:48│Comments(0)
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